ここ数日、なぜか暖かい。
天気予報では、4月下旬の暖かさだとか、気象台始まって以来3番目の暖かさだとか言っていた。
特に昨日は風も強く、三国志の赤壁の戦いの時に、諸葛孔明が呼んだ風というのがこの風のことではないだろうかと、ぼくは思っていた。
季節もちょうどこの頃だし。
孔明は「データ・マン」だった。
いろいろな資料から、冬のこの時期に乾の方角から、暖かい風が突風になって吹いてくるのを知っていたのだ。
それをわざわざ、自分が祈って風を呼んだような演出をしたのだ。
卑近な例えで言うと、理科の先生が手品で生徒を騙したようなものである。
ぼくが初めて三国志を読んだのは、20歳の頃だった。
その頃のぼくはやることもなく、いつも暇つぶしに本屋に行っていた。
「どうせ暇だから、長編でも読んでみるか」と手に取ったのが、吉川英二の「三国志」だった。
文庫版全8巻を買い込んで、必死に読んだ。
とにかく登場人物が多く、一度や二度読んだくらいではその関係がつかめなかった。
そうなると当然物語の流れをつかめないので、納得のいくまで繰り返し読んだ。
5回ほど読んで、ようやく物語の流れを把握できた。
しかし、解説などに書いている「すごい感動」を味わうまでにはいたらず、さらに「これを読んだ人は必ず泣く」と言われている、「出師の表」を読んでも泣けない。
「読み方が足りんとかのう」などと思いながら、また何度も読んだ。
10回は読んだだろうか。
それでも、感動を味わえない。泣けない。
諸葛孔明が出てくるまでの前半4巻は疲れるし、孔明が死んでからは面白くない。
すでに内容を知ってしまっているから、感動もくそもない。
結局「三国志は、おれには合わん!」と投げ出してしまった。
「劉備玄徳が人肉を食べた」ということが、変に印象に残っただけだった。
その後も、正史の「三国志」や柴田錬三郎の「柴錬三国志」などを読んでみたが、感動したとか泣いたなどということはなかった。
やはりぼくには「三国志」は合ってなかったのだろう。
それから何年後だったか、前の会社にいた時の話だ。
ぼくの周りが急に「三国志」を読み出したのだ。
なんでも社長が、「三国志」を読んで感動したということで、社員に薦めているらしかった。
その時の店長がみんなに向かって、「お前たちもくだらんマンガばかり読んでないで、三国志のようないい本を読め。こういう本で自分を磨いていけ」などとほざいていた。
しかしそういう店長が読んでいたのは、マンガの「三国志」だった。
社長が「読め」と言うから読むような、そんな主体性のない人間から言われたくない。
自分を磨く本は、ちゃんと自分で探すべきだ。
「社長がいいと言うから三国志を読む」では何のためにもならないということを、「人が感動すると言うから三国志を読んでいた」ぼくは知っていた。