ご当地ソングというものがある。
ある一つのストーリーの中に、無理やり地名や縁のものを入れている歌である。
こちら福岡県にもいろいろなご当地ソングがあるが、北九州に限定すると、『無法松の一生』と『花と龍』が有名である。
よく、旅行や出張に行った時、そこの人から「せっかく北九州からお出でになったんだから、『無法松の一生』やって下さいよ」と言われる。
中には「できたら『度胸千両』入りでお願いします」、と注文をつける人もいる。
ぼくは『無法松の一生』を歌って歌えないことはない。
もちろん『度胸千両』抜きでなら、の話であるが。
しかし、せっかく知らない土地に来て、いい気分で酒を飲んでいるのだから、こういう時だけは、北九州から離れたいものである。
そのへんを察して欲しいのだが、「北九州は『無法松』じゃないといかん」、と思っている人がけっこういる。
もしかしたら、こういう人は、北九州の人はみな、『無法松』を毎日歌っていると勘違いしているのではないだろうか?
もしくは、『無法松』を学校で習っていると思っているのではないだろうか?
決してそんなことはない。
ぼくの周りには、『無法松』を知らない人がけっこういるのである。
北九州の人間は『無法松』を歌わないといかん、という人に聞きたいことがある。
もし、それが佐賀の人だったらどうするのだろう。
「佐賀、佐賀・・・。はて、佐賀に有名な歌があっただろうか」
考えても思いつかないから、「じゃあ、長崎の隣だから、『長崎は今日も雨だった』を歌え」、とでも言うのだろうか?
もしくは、福岡の隣だから『炭坑節』を歌え、と言うのだろうか?
それでは佐賀の人に失礼である。
願わくば、佐賀の人と飲む時は、ご当地ソングを無理やり歌わせないようにして欲しいものである。
さて、ご当地ソングといえば、その最たるものは、何と言っても校歌だろう。
その地域に住む住民しか知らない地名や、山や川のオンパレードだ。
例えば、ぼくの行った小学校の校歌に、「鵜ノ巣の池」というのが出てくるが、おそらくその池の存在を知っているのは、その校区に住んでいる人くらいだろう。
ぼくはこの池に行ったこともない。
また、「江川」という川の名前が出てくるが、これは川というよりどぶだ。
このどぶが、さわやかに流れるというから、お笑いであった。
全然生活に密着していない。
その校歌に必ず出てくるのが、その市や町のシンボルである。
ぼくの行った小中高の校歌には、八幡のシンボルである帆柱(皿倉)山が必ず入っていた。
小学校は「描いて清い帆柱や」、中学では「皿倉の峰にも届け」、高校は「帆柱山を背において」だった。
しかし、この歌詞だけを見てもらってもわかるだろうが、ここは別に「帆柱山」でなくともいいわけだ。
例えば、「描いて清いすすきの」でも、「吉原の街にも届け」でも、「中洲の街を背において」でも、別にかまわない。
山は、あくまでもこじつけに過ぎないのだから。
また、中学では「玄界灘」、高校では「洞海湾」なども登場した。
高校の校歌は、今考えるとひどいものであった。
問題の箇所は、「新潮かおる、洞(くき)の海。希望の光、君見ずや」という歌詞にあった。
「洞の海」とは「洞海湾」のことである。
当時、洞海湾は工業排水で汚染されまくり、「魚の住まない、死の海」と、しばしば全国版のニュースでも紹介されている。
その「死の海」の新潮が香るのである。
これは大変なことである。
阿蘇山の火山ガスが発生するようなものである。
付近の住民は鼻を押さえて、直ちに避難しなければならない。
当然、こんな海に希望を見つけることは出来ないだろう。
なぜこんなことになるのか?
それは、ただ意味もなく地名を並べたからである。
おそらく作詞者は、「ほう、そこには『洞の海』というものがあるのか。じゃあ、これも使っちゃえ」と、現地の視察もせずに、安易に詞を書いたのだろう。
その歌詞に、「今は『死の海』と呼ばれている洞海湾だが、みんなの力でそれを希望の光が輝く、美しい海に変えていこう」という前向きなものが見えればまだいいのだが、ただ海の名前を添えているだけだから、そういう希望はまったく見えない。
そこにあるのは、現実との大きなギャップだけであった。
ご当地ソングが悪いとは言わない。
地名、山、川、大いに結構。
しかし、その歌がどんな地名を入れても成り立つ歌なら、そんな歌は作らないほうが賢明だと思う。
どうしても作るのなら、その土地の現実や生活が充分に考慮されなければならないだろう。
ところで、話は元に戻るが、これだけは言っておきたいことがある。
ぼくは、『無法松の一生』は絶対に歌わん!