「雨の降る夜は」(MIDI)
雨の降る夜は たった一人で
蚊取り線香の光を見つめて
蛙といっしょに 歌をうたうと
見知らぬ人が 傘をさして通り過ぎる
街は濡れ 人は濡れ
辺りは変わり 色も濃く
遠くの船の 音に魅かれて
異国の町に 立っているような
いよいよ梅雨に入った。
昼間、サラッと雨が降った。
これが始まりの合図だった。
今日から約1ヶ月、嫌な季節とのお付き合いである。
この時期一番困るのが、傘である。
ぼくは昔から傘をさすのが下手だったので、いつも濡れてばかりいた。
高校の頃には、傘をさすのが面倒になり、大雨の時以外はささなくなった。
さらに予備校時代は、毎日意地になって自転車で通っていたので、大雨や台風の日でも傘をささなかった。
その後、社会に出てからは、アーケードを通り抜けて会社に行っていたので、傘をさして歩いたという記憶がない。
ここ10年は車で通勤しているので、傘をさす機会がない。
長い年月こういう状況が続いているので、ただでさえ下手な傘のさし方は、さらにひどくなっているだろう。
傘のさし方に上手いも下手もあるものか、と思う人もいるかもしれないが、実際あるのだ。
傘のさし方の上手い人は、どういうわけか濡れ方が少ない。
達人ともなると、まったく濡れてないのだ。
ところが、下手な人は、頭や顔さえ濡れなければいいと思っているので、どうしてもさし方が雑になる。
そのために、肩が濡れていたり、下半身がびっしょりだったりするのだ。
状況にあわせて傘をさす、というのは、人に習ってできるものではない。
やはりそこには、野性的な勘が必要になるのだろう。
野性的な勘、いわば才能である。
その才能がない人は、悲しいかな、雨に濡れる人生を送らなければならない。
かく言うぼくも、その一人である。
昔読んだ『葉隠』という本の中に、「大雨の戒め」という教えがあった。
大概の人は大雨になると、慌ててしまい、平常心をなくす。
しかし武士たる者、こういう心構えではいかん、というのだ。
あらかじめ大雨に打たれる心の準備さえしておけば、「すわ大雨」といった時も慌てないで平常心を保てる、そういう人こそ立派な武士である、という趣旨だった。
ぼくが予備校時代、意地になって毎日自転車で通っていたのも、この教えの影響である。
しかし、中途半端な読み方をしていたために、行為だけの実践で、精神的には何ひとつ得るものがなかった。
つまり、立派な武士にはなれなかった、ということである。
冒頭の詩は、その予備校時代に作ったものだ。
大雨の中、必死に自転車をこいで帰ってきた。
一風呂浴びて、ほっと一息ついていた時に考えた。
「『大雨の戒め』もいいけど、もっと他に心の遊ばせかたがあるんじゃないか」
そう思った時に、どこからともなく蛙の声が聞こえてきた。
その状況を、詩風にまとめたものである。
そういえば、最近は蛙の声も聞こえなくなった。
以前は、家の前の川に平行して、水路が作られていた。
そこにたくさんの蛙が住み着いていたが、そこを埋め立てて道路にしたために、蛙が絶滅してしまった。
おそらく、今ならこんな詩は書けないだろう。