「あのう、今の歌、何という歌ですか?」
「黄昏のビギン」
それでぼくはピンと来た。
中森明菜の『歌姫Ⅱ』というアルバムに入っている歌じゃないか。
「誰の歌ですか?」
「水原弘です」
「中森明菜も歌ってますよ」
「ほう、明菜が」
「いい歌ですね」
「うん」
そういう話をしている時、ママさんがぼくの席にやってきた。
そして言った。
「あの人ね、前は歌手やったんよ」
「へえ」
「ほらここにも名前があるよ」
そう言って、ママさんはぼくにカラオケのメニューを見せた。
「ほら、ここ」
そこには、ぼくが聞いたことのない名前が載っていた。
『K.J』
「へえ」と答えておいた。
もしかしたら偽者かもしれない。
ちょっと古い歌手だし、一般には顔も知られてないような人だから、地方に行けばごまかせる。
元ヴィレッジ・シンガーズの清水道夫の例もあることだし。
しかし、そのおっさんが本人でも偽者でも、ぼくにはどうでもいいことだった。
ぼくのグループが仕事の話などを始めたので、ぼくはその『K.J』なる歌手のおっさんの横に移動した。
「歌手だったらしいですね」
「昔ですね」
「歌手なら先生ですね。いよっ、先生!」
「先生はどちらの出身ですか?」
「北海道です」
「東京に出て歌手になったんですか?」
「まあ」
「それから黒崎に来たんですか?」
「いや、博多に5年いましてねえ」
「で、黒崎に」
「いろいろありましてねえ」
「先生も苦労されたんですねえ」
ぼくが歌手のおっさんのことを「先生」と呼んだので、気分をよくしたのだろう。
「まあ、一杯やらんですか」と、ぼくに酒を勧めてきた。
その後もぼくは「先生、先生」と持ち上げたので、歌手のおっさんは完全にぼくを気に入ってしまった。
カウンターの中に入り、勝手に酒をついでは、ぼくに振舞った。
しかし、質の悪い冷酒だった。
これで、ビール、焼酎、ウィスキー、日本酒、と全部の酒を制覇したことになった。
もちろん、今日頭が痛かったのも、チャンポンで飲んだせいだろう。
帰るまでずっと、歌手のおっさんと話をしていた。
歌手のおっさんは話の中で、有名な歌手の名前を連発していた。
みな懇意らしい。
店を出たのは2時を過ぎていた。
タクシーで帰り、すぐに布団の中にもぐった。
日記は朝起きてから書いた。
会社に行く前に風呂に入ったのだが、頭の痛みはそれで引いた。
しかし、酒はまだ抜けなかった。
二日酔いというよりも、まだ酔っ払っていた。
おそらく、歌手のおっさんからもらった冷酒が効いたのだろう。
この酔いは午前中一杯続いた。
立っているのが辛く、歩くとフラフラした。
きっと周りの人は酒臭かっただろう。
しかし考えてみると、その状態で車を運転して行ったのだから、恐ろしいことである。
運転中に、並走車や対向車が、こちらに向かってくるような錯覚を何度か起こした。
会社に着いた時、よく死ななかったものだ、と一人で感激していたほどだった。
けっこうスピードを出していたから、ちょっとした運転ミスで大惨事になっていたかもしれない。
もしそうなっていたら、「また、福岡県の事故件数が増えた」と、福岡県公安委員会のおっさんを嘆かせることになる。
ところで、昨日飲んだグループとは、年内に何度か飲む約束をした。
次回は、ぼくの休みの前の日にして欲しいものだ。