最近、新聞などを読んでいると、すでに人質事件の真相よりも、自己責任批判のほうに関心が移っているように思える。
というより、事件の真相はうやむやにして、論点を外圧の自己責任問題にすり替えようという意図さえ感じとれる。
ここ何日かのニュースやワイドショーで、例の演出があったとされるビデオの検証が行われている。
「ノー小泉、ノー小泉」、まるでデモのスローガンのような臭いセリフ。
カメラを向けられてから、初めて悲鳴を上げる女性・・・。
最初こそ緊張感を持って見ていたものの、最近はこの映像を見るたびに「何と平和な空間なんだ」と思うようになった。
ところで、ぼくには一つの疑問があるのだが、あのビデオを撮る時、武装グループは人質三人に、怯えたような動作をするように強要したという。
ということは、その時、あの三人は怯えてなかったということになりはしないだろうか。
泣いている者に対して、あえて「泣け」とは言わないように、怯えている者に対して、あえて「怯えろ」とは言わないはずだからだ。
もしかしたら、犯人側は、恐怖感が感じとれない三人を見て、「怯えろ」と言ったのかもしれない。
そこには、イラク人と日本人の怯えの表現の違いがあるのかもしれないが、もしそうなら、ビデオはイラク国内に向けて発信するのではないから、そこは日本人的怯えでよかったのではないだろうか。