東京にいた頃、ぼくは高田馬場に住んでいた。
早大生でもないのに、どうして高田馬場かというと、不動産屋に下宿を探しに行った時に、先方が「どういうところがいいですか?」と聞くので、「本屋の近くがいいです」と答えたら、「じゃあここはどうでしょう」と薦められたのが高田馬場だったというわけだ。
山手線内ということで、若干下宿代は高かったものの、資料を見ると、国電(当時)や西武新宿線の駅からは歩いて5分と近く、地下鉄駅にいたっては歩いて1分もかからない。
さっそく現地を見に行ったのだが、造りが古いことを除けば、日当たりもよく、台所も備えてあり、まずまずの印象だった。
何よりもよかったのは、駅を降りて下宿に帰るまでに、3軒の本屋があったということだ。
しかもそのうちの1軒は、地下鉄駅のすぐ横、つまり下宿から歩いて1分の位置にあった。
不動産屋に戻ると、係の人が「どうでしたか?」と聞くので、「今日からでも住みたいです」と答え、さっそく手続きをした。
で、高田馬場にどんな想い出があるのかというと、本を買った・立ち読みした、近くの牛丼屋の牛丼は妙に油は多かった、といった日常生活的な記憶以外に、そう大した想い出を持ってはいない。
それは、東京に出た最初の年こそ、せっせと下宿に帰っていたものの、次の年あたりから友人たちの家を泊まり歩くようになったためだ。
昨日は埼玉、今日は千葉、明日は神奈川といった生活をくり返していたのだ。
そのため、東京にいるのは週1回程度だった。
後で聞いた話だが、下宿のおばさんは、ぼくがいつもいないので、実家に「何で毎日下宿に帰ってこないんですか?」と馬鹿な電話をかけたりしていたようだ。
ぼくの知っている範囲では、高田馬場はのんびりした街という印象だった。
が、夜中の騒音には悩まされた。
さて寝ようかなと思っていると、突然「ドワー」という大音響。
「万歳」が聞こえてくる。
怒号が聞こえてくる。
嗚咽が聞こえてくる。
近くにこれと言った飲み屋がないのに、何の騒ぎかと思ったら、翌日の新聞を見て納得した。
東京六大学野球で早大が優勝したのだった。
大学内やその近辺の飲み屋で出来上がった学生が、その勢いで高田馬場に繰り出していたのだろう。
優勝は嬉しいかもしれないが、付近の住民にとっては迷惑な話である。
迷惑と言えば、駅前でよくヘルメットをかぶった早稲田の学生が、メガホン片手に何やらわけのわからない演説をしていた。
ぼくが東京にいた時期は、70年安保から10年近くもたっており、学生運動もかなり下火になっていた。
唾を飛ばして訴えている内容にも、具体性はなく、どこかピントのはずれたものだった。
何人かの学生がビラを配っていたが、受けとる人もいなかった。
ぼくはそれを見てある種の臭みを感じていた。
臭み、それは自己顕示・自己陶酔・自己満足だった。
きっと彼らは政治批判にかこつけて、自分たちの頭の良さを顕示していたのだろう。
後年、東京に出た際に、時間が余ったので高田馬場に寄ったことがある。
駅前はあいかわらずで、右手にビッグボックス、正面に芳林堂といった風景は変わっていなかった。
が、ぼくのいた下宿付近は大いに様変わりしていた。
第一、下宿自体がなくなっている。
しかも、そのへんに大きな建物が建っており、どの位置に下宿があったのかさえわからなくなっていた。
下宿は、早稲田通りから路地に入ったところにあったのだが、一瞬その入り口を間違えたのかと思ったものだ。
しかし、目印である地下鉄の階段はちゃんとそこに存在していた。
本屋もちゃんとあった。
ぼくが一度だけ利用したことのある床屋も、そこにあった。
しかし、あまり滞在したことのなかったところなので、感慨といったものはなかった。
これが十数年前の話であるから、今行ったとしたら、さらに様変わりしていることだろう。
案外、その路地もなくなっているのかもしれない。