『我に帰れば、心の中にある地獄は消え去ってしまう。だから、我に帰ろう』
妙法蓮華経観世音普門品第二十五、つまり観音経の要約である。
般若心経に比べて、観音経はだらだらと説教が続いているが、要はこういうことをいろいろな方面から説明しているにすぎないのだ。
30歳の頃、ある事情から、ぼくはこのお経にかかわりをもつことになった。
それまでは、のんびりと中国思想などと闘っていたのだが、そういったどちらかというと処世術的なものでは解決出来ない問題があるのを知ったのである。
そういう時に出会ったのが、般若心経であり、この観音経だったわけだ。
この観音経にはいろいろな霊験が書いてある。
火の中に落とされた時、大海に漂流した時、山から突き落とされた時、賊に襲われた時、魔物に襲われた時など、もろもろの苦難を受けた時、観音の力を念じれば救われるというものだ。
その、「観音の力を念じれば」の部分が『念彼観音力』という有名な言葉である。
この経を勉強していた頃、ぼくはこの『念彼観音力』にほとほと手を焼いた。
声を出して「ネンピーカンノンリキ」と唱えてみればわかるが、この言葉は実に力強い言葉である。
また、この言葉は、念力の『念』という文字を含んでいる。
超常現象物が好きなぼくは、この『念彼観音力』という言葉を見て、すぐに超能力を連想した。
そして、この『念彼観音力』の中に呪文を感じた。
そう、最初にこの言葉を見た時、ぼくは「念じれば、苦難から逃れることが出来、行く行くは超能力を得ることが出来るようになる」と単純に理解したのだった。
それからぼくは、毎日「念彼観音力、念彼観音力…」と唱えていた。
しかし、苦難からは逃れることは出来ない。
ましてや、超能力なんて、夢のまた夢である。
確かに唱え始めた頃は、心身共に軽くなっていくのを感じたのだが、日が経つにつれてそれは惰性になり、ついにはただの口癖になってしまった。
また経の解釈も、「呪文を唱えれば苦難から逃れる」となったため、言葉の苦難から逃れられなくなった時、「このお経は偽物だ」と認めざるをえなかった。
そういう時だった。
「観音経は人生の書だ」と書いてある本を見つけた。
そこには、「観音経は、字面ばかり捉えていても何も見えてこない。そこに人生を照らし合わせてみろ。はたと気づくことがあるはずだ」といった内容だった。
そう言われればそうである。
超常現象マニア限定の本なら、こうまで長く多くの人に読み継がれなかっただろう。
では、『念彼観音力』が呪文でないとしたら、いったい何なのか。
この疑問がぼくの、観音経の再出発点となった。
もはやそこに超常現象を見ることはなかった。
ある時、ふと我に帰った瞬間に、それまであった悩みがきれいさっぱりと消え去っているのに気づいた。
「これはいったい何だろう。もしかして『念彼観音力』は、この呼吸なのか?」
そこから、また探求が始まる。