【新字と旧字】
現在、正しい漢字(旧字)を使用している国は、台湾だけらしい。
日本は戦後、新字体や簡化字が使われるようになり、旧字は人名や参考程度でしか使われてはいない。
また、本家の中国も同じく簡化字を使うようになっているし、半島にいたっては、まったく漢字を使わなくなっているようだ。
確かに漢字は難しいし、書くのが面倒である。
比較的簡単になった現代の漢字でさえそうなのだから、画数が多くなる旧字はなおさらである。
例えば渡辺の『辺』という字があるが、これは今でこそ簡単だが、旧字だと『邊』や『邉』となる。
同じように『浜』は『濱』、『桜』は『櫻』、『尽』は『盡』、『斎』は『齋』である。
旧字で姓名を書いている人には申し訳ないが、一般の人にとってこのような漢字は読めたとしても、書く気にはならない。
とはいえ、旧字でないと伝わらない文字というのもある。
例えば『ともしび』という字。
新字だと「灯」となり『火』に『丁』と書くが、なぜこれが『ともしび』となるのかがわからない。
『丁』には停めるという意味があるらしいが、火を停めては『ともしび』とはならないだろう。
ところが旧字だと『燈』であるから、火が登ることになり、意味はわかる。
医者の『医』も旧字で書くと『醫』となり、いかにも面倒な漢字になる。
が、こうでなければ意味はわからないらしい。
【漢字とのつき合い】
漢字を覚えるのは大変である。
興味がある人にとっては独自の覚えかたがあるのかもしれないが、興味がない者にとっては書いて覚えるしか方法がない。
これが嫌なのだ。
小学生の頃、よく「二百字帳を漢字で埋めてこい」という宿題が出ていた。
この宿題、若干なりとも解く楽しさがある算数などと違って、ただ黙々と書くという地味な作業だった。
そこには当然、持続力とか耐久力とかいったものが要求される。
そのため、集中力のないぼくにとって、これほど辛い宿題はなかったわけだ。
高学年になるにしたがって、漢字の画数も増え、より時間がかかるようになっていき、その苦痛に耐えかねて、それまでやらないことのなかった宿題を、ついにやらなくなったのだった。
教育漢字中心の小学校でさえこの調子だったのだ。
当用漢字が頻繁に出てくる中学高校の漢字には、対抗出来るはずもなかった。
ところが、そういうぼくが、今はいちおう漢字に強い人となっている。
なぜそういう人になったのかというと、姓名判断に興味を持ったからだ。
姓名判断は、画数で運勢や性格を判断する占いである。
そのため、嫌でも漢字に取り組まなければならない。
姓名判断本の巻末には漢字早見表が載っているので、それを見て画数を割り出せばいいのだが、いつもいつも早見表を持ち歩いているわけではない。
ということで、書いて画数を割り出すことになる。
そのおかげで、自然に漢字を覚えたわけだ。