頑張る40代!

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平面の記憶(後)

その理由の一つに、季節感のなさも上げられるのではないだろうか。
エアコンが普及した現在、多くの人は外に出ない限り、年中同じ温度湿度の中で生活している。
そのために季節が感じられなくなってしまい、かつて持っていた季節の記憶、時候の記憶といったものが欠如しているように思える。

例えば、迷い猫のことを書いたが、2月のことだったし、当然外は寒かったはずだ。
ところが、「2月の寒い日、店に猫が迷い込んできた」というような記憶がない。
ただ単に、「店に猫が迷い込んできた」という記憶しかないのだ。
つまり、事象としては記憶しているが、感覚の中で記憶してないということである。
なぜなら、そのことが店の中で展開されたからだ。
そう、年中変わらない温度湿度の中に猫が迷い込んできたので、感覚の中の記憶として残ってないのだ。

「その日は寒かった」という感覚の中の記憶がないということは、その事柄に対しての情報量が少ないということである。
情報量が少ないということは、脳内では取るに足らないものとして処理されていることになる。
取るに足らない事柄なのだから、当然その記憶には起伏がない。
言い換えれば凹凸がない記憶だということだ。
ゆえに、これを『平面の記憶』と呼んでも差し支えないだろう。

そういう凹凸のない平面の記憶がダラダラと続いているものだから、認識する心が滑ってしまって、えらく時間が経つのが早く感じるのだ。
これは、起伏のない平坦な高速道路を車で走っているのと同じである。
走っている時は退屈で時間が長く感じるのだが、後で思い起こしてみるとその部分はカットされていて、目的地にすぐに着いたような記憶構成になっている。
それは、走っている時の印象が薄い、つまり情報量が少ないからだと思う。

そうやって考えてみると、自然界に寒暖晴雨があり、人に喜怒哀楽があるのもうなずける。
それはきっと、記憶が平面化しない、つまり人生が退屈にならないようにするための、神の配慮なのだ。
こういったものから逃れようとするのではなく、楽しんで受けとめるぐらいの余裕があれば、時間の長さも人生も、もっと緩やかなものになるのではないだろうか。
快適生活というのは、実は味気ないものなのかもしれない。