頑張る40代!

いろんなことに悩む暇があったら、さっさとネタにしてしまおう!

そしりを受けないものはない

法句経(法華経ではない)というお経がある。
上座部仏教の経典で、仏教の論語のようなものである。
東京にいた頃、仏教書を読んでみたいと思い、古書街を探し回って見つけたのが、その『法句経(友松圓諦師訳)』だった。

このお経、例えば般若心経のように空の理論を展開しているわけではない。
例えば観音経のように、御利益を羅列しているわけではない。
では何を書いているのかというと、人として生きる道を丁寧に説いているのだ。

例えば、
「『彼は私を罵った。私をなぐり、私を敗北させ、私から掠めたのだ』こうした考えに執着する人には、そのうらみは息(やす)むことがない」(友松圓諦師、現代語訳)
という句がある。
その通りである。
では、どうすればうらみが消えるのかというと、
「『彼は私を罵った。私をなぐり、私を敗北させ、私から掠めたのだ』こうした考えに執着しない人にこそ、そのうらみは消え失せる」のだ。
実にわかりやすい。
つまり、根に持つなということである。
しかし、頭ではわかっていても、心のほうが素直に言うことを聞いてくれないから困るのだ。
それを解決するためにいろいろと工夫・実践した結果が、「すべてを空と見よ」とした般若心経であり、「一心に観音を念じよ。きっと救われる」という観音経なのである。

あっ、今日はそんなことを書くんじゃなかった。
今日久しぶりに読んだその法句経に、興味深いことが書いてあったのだ。
「人は黙って座っているものをそしる。多く語るものをそしる。ほんの少し語るものでさえそしる。この世の中にそしりを受けないものはない」という言葉である。

小学生の頃のぼくは、実にしゃべり好きな人間だった。
よく「口から先に生まれてきた」などというが、そういうたぐいの人間だったのだ。
そのしゃべりがいつもギャグを含んでいたため、クラスではわりと人気のあったほうである。
ところが、それをよく思わない人間もいた。
彼らは、ぼくを見るたびに、いつも罵声を浴びせていたものだ。
ぼくも負けじと応戦していた。
結局、最後の最後まで、ぼくと彼らは打ち解けることはなかった。
中学卒業以来、彼らと会うことはないが、もし会うことがあったとしても、話をすることはないだろう。
なぜなら、いまだお互いに根を持っているだろうからだ。

それから三十数年後、つまり今だが、ぼくは余計なことはしゃべらない人間になった。
すると今度は、無口だの、暗いだの言ってそしられるようになってしまった。

「しゃべればしゃべったで敵が出来る。しゃべらなければしゃべらなかったで溝が出来る。いったい、どうしろと言うんだ?」
というのが、最近の悩みであった。
だが、今日その言葉を読んで、思わず「なるほど!」膝を打ったのだった。
つまり、「そういう声に反発するのをやめて、執着しないことに努めよ」ということなのだろう。
たったそれだけのことで、悩みというのは消えていくものなのだ。
なぜかというと、実のないこと、つまり『空』だからだ。
しかし、たったそれだけのことが難しい。
また新たな悩みになりそうである。