5日の日記に『雲雷鼓掣電 降雹ジュ大雨 念彼観音力 応時得消散』という経文のことを書いたが、忘れていたことがある。
それは、訳を書いてなかったということだ。
ということで、訳を書いておく。
「暗雲は地を覆い、雷音は地を震わす。
大雹は地を叩き、豪雨は地を埋める。
念彼観音力、ひたすら呼び続けよ。
魔はたちどころに消え去るだろう」
まあ、こういうところだろうか。
やはり『念彼観音力』は難しい。
いろいろと考えてみたが、訳せなかった。
で、そのまま使うことにした。
そういえば、かつてある人が、クレージーキャッツの植木等に「南無阿弥陀仏って、どういう意味ですか?」と尋ねたことがあるという。
植木等の生家は浄土真宗のお寺である。
それでそういうことを聞いたのだと思うが、その時の植木さんの答が実に味わい深い。
「ただいまーっていう意味だよ」
すごい人である。
『南無阿弥陀仏』を説明するとなると、本にすれば何冊にもなってしまうだろう。
それを植木さんは一言で言ってのけたのだ。
ある禅の本に、「本来の自己に取って返す」ということが書いてあった。
何かに心奪われそうになった時や、自分を見失いそうになった時には、すかさず本来の自己に取って返すことが大切だというのだ。
そのためには、念仏やお題目を唱えるのも一つの方法だということだった。
『本来の自己に取って返す』というのは、「自分に立ち返る」という意味である。
「自分に立ち返る」というのは、「自分に帰す」と言い換えることができる。
そう、「自分に帰す」のだから「ただいま」なのだ。
実は『念彼観音力』も同じ意味なのであるが、この経文に突然「ただいま」を入れてもおかしい。
ということで、ずっと悩んでいたわけである。
ところで、ぼくは一度この経文を実践したことがある。
前の会社で外回りをしている時のことだった。
夕方、それまで晴れ渡っていた空が、突如暗くなって、夕立が降り出した。
朝からずっと晴れていたので、傘なんか持ってない。
そのためずぶ濡れになってしまった。
どこかで雨宿りしようと思ったのだが、そういう場所もない。
「どうしよう」と途方に暮れていた時だった。
ふとこの経文が口をついて出たのだ。
『雲雷鼓掣電 降雹ジュ大雨 念彼観音力 応時得消散』
ところが、これを何十回、何百回繰り返しても、雨はいっこうにやむ気配がない。
「『まさにその時、消散することを得る』じゃないか。何で祈りが通じないんだ。あれは嘘か!?」と、ぼくは経文を恨んだ。
と、その時だった。
急に雨がやんだのだ。
「おお、祈りが通じたぞ」と、ぼくは心の中で小躍りしていた。
しかし、それは束の間だった。
またしても雨が激しくなったのだ。
結局、その日は、雨がやむことはなかった。
家に帰るまで、ずっと「クソー」とお経を恨んでいた。
が、別にお経が悪いわけではない。
経文を鵜呑みにしていたぼくがバカだったのだ。
そう、お経は現世利益を説いているのではないのだから。